Takashimaya archives おかげにて ,高島屋 180年の歩み。

 

初代飯田新七が京都で古着・木綿商(屋号「高島屋」)を始める。
創業者飯田新七(初代)は、1803(享和3)年、越前国(福井県)敦賀の中野宗兵衛の子に生まれ、幼名を鐡次郎といいました。
12歳で京都の呉服商に奉公にでて、26歳の時、京都烏丸松原で米穀商高島屋を営んでいた飯田儀兵衛(近江国(滋賀県)高島郡出身)の長女、秀と結婚し婿養子となりました。その後新七は分家し、近隣に妻秀と家を借り、古着と木綿を扱う店を始めます。
屋号は本家と同じ「高島屋」としました。1831(天保2)年正月のことです。
間口4.5mの小さな店舗が今日に続く高島屋の出発点となりました。
おかげ参り
江戸時代、伊勢神宮への参詣は「おかげ参り」といって、庶民には一生に一度の大旅行でした。
伊勢神宮では、古より20年毎に社殿を造りかえる式年遷宮が行われ、特に遷宮翌年は「おかげ年」として参詣者が増え、京都を訪れる観光客も増えました。
創業年の1831(天保2)年は「おかげ年」に当たり、初代新七は、商いの上で守るべき「利を薄くして売る」という言葉と「おかげ参り」を結びつけて、
「オカゲニテヤスウリ(おかげにて安売り)」
とし、これを10の数字の店用符丁としました。これにより商人の心得と基本姿勢を平素より忘れないようにいましめました。
創業者 初代飯田新七 肖像
所蔵する文書から、創業者初代飯田新七のひととなりを伺い知ることができます。
飯田新七が孫たちをつれて西本願寺大谷本廟に参詣した帰り道、その門前で眼下に広がる京都の町を指し示し、子供たちに語りました。
「お前達、目を開いてよく見よ。京都広しといっても こうして見ると両目に収まってしまう。その中に住む人の数も知れたものである。志を広大にして日本中はおろか世界の人を得意先として商売する心がけが肝要である。」
この言葉は子供たちの心に残り、成長した子供たちは初代の教えの通り、広い世界へと積極経営を展開していくことになりました。
飯田歌(二代新七の妻)
飯田歌は1833(天保4)年、創業者初代飯田新七の長女として生まれました。
歌19歳の時、上田直次郎を婿に迎えました。1856(安政3)年、初代隠居後、夫直次郎が二代新七を襲名。二代は博覧会への出品や貿易を始めるなど、高島屋発展の基礎を築きましたが、初代没後わずか4年後の1878(明治11)年に亡くなります。
残された子供たちはまだ若く、家業の先行きが危ぶまれましたが、歌は三代(長男)、四代(次男)を育て上げ、この難局を乗り切り、高島屋をさらに発展させました。
高島屋と貿易
明治維新後、開国した日本の存在が欧米でも知られるようになり、1876(明治9)年、アメリカの商社スミス・ベーカー商会が来店し、帛紗(ふくさ)を大量に購入していきました。次第にお土産に美術織物や工芸品を求めて多くの外国人が来店するようになると、高島屋は1877年の京都博覧会より、国内外の博覧会に積極的に美術染織品を出品。博覧会での数々の受賞は、広く高島屋の評価を上げることとなりました。
そして1887(明治20)年には貿易部を開設し、のちに貿易店「高島屋飯田新七東店」を新築しました(1893年)。また1900年代初頭までには、横浜・東京・天津・リヨン・ロンドン・シドニー・ニューヨークにも出張所を開設。1916(大正5)年には貿易部を独立し、高島屋飯田(株)を設立しました。
こうして百貨店より先に貿易会社を株式会社として誕生させることになりました。
写真は高島屋飯田新七東店店内陳列場。
国際的な博覧会に意欲的に出品。
海外の博覧会でのあいつぐ受賞。
京都南店に今の百貨店の原型ともいえるショーウインドーを設置。

大阪店開店(南区心斎橋筋)

百貨店初の野外大型広告を出す。

地方係(通信販売)設置。

東京店開店(京橋区西紺屋町)

大阪店に装飾係設置。

流行案内「新衣裳」第1号発行。