Takashimaya archives おかげにて ,高島屋 180年の歩み。

 

緞帳(どんちょう)の製作「天の岩戸開き」
高島屋は1889(明治22)年、東京・歌舞伎座や京都・祇園館(1890年)の引き幕を調製したのをはじめ、様々な劇場引き幕を手がけてきました。
1909年には、大阪北浜に落成した帝国座の緞帳を、都路華香(つじかこう)原画の「天の岩戸開き」を染め上げたビロード友禅で調製しました。翌年には東京・帝国劇場を手がけるなど、その後多くの緞帳を調製。
緞帳製作や内装・装飾の仕事は、やがて官公庁、公共施設、ホテル、船舶の内装・家具工事等多くの受注を得る装飾事業として発展し、高島屋事業のひとつの柱となりました。
高島屋美術部の創設
1909(明治42)年、当時の有名画家による「現代名家百幅画会」を開催しました。民間で最初といわれるこの大規模な展覧会を契機に、高島屋美術部は創設されました。
当時、一般にはまだあまり知られていなかった富岡鉄斎の個展を次々に開催。
高島屋は横山大観、下村観山ら、多くの画家・作家を支援し、作品を世に出し、また親交を深めました。
この写真は鉄斎筆の高島屋美術部の扁額です。
美術部は1919(大正8)年、大阪・江戸堀に同額を看板として掲げた店舗で常時美術品の販売を行いました。
2008(平成20)年には創部100年を迎えました。

高島屋飯田合名会社設立。

ロンドン日英博覧会に高島屋館を設置、ビロード友禅の壁掛け「世界三景」や、竹内栖鳳筆の「アレ夕立に」などを出品し、受賞。
京都 烏丸店の新築
京都 烏丸店は、創業以来幾度か改築を重ね、二階建てのモダンな店舗でしたが、1908(明治41)年、烏丸通が天皇の行幸道路として拡張されることを知り、三代飯田新七は店舗を最新式鉄筋による本建築に改造することにしました。
1912(明治45)年に新築落成。
商業施設としては日本初の鉄筋コンクリート3階建てで、耐火耐震の設備を施し、貿易店や美術織物の陳列場をあわせもつ総合的店舗となりました。
第1回「新柄流行品百選会」開催。
東京 南伝馬町店
1890(明治23)年、東京に出張所を設けた高島屋は、1900(明治33)年、京橋区西紺屋町に「京都高島屋飯田新七東京店」として出店しましたが、店売りには不向きでした。
そこで本格的な店頭陳列販売を行うため、大通りに出店を計画し、1916(大正2)年、京橋区南伝馬町に新築開店しました。
外観は、先に竣工し好評を博した京都烏丸店(1912年開店)の様式を採用。木造3階建てでした。

輸出入部門が独立。高島屋飯田(株)設立。

株式会社高島屋呉服店設立、資本金300万円。

再建された大阪 心斎橋店
1898(明治31)年に開店した大阪 心斎橋店は、呉服店として初めてショーウインドーにマネキンを置き話題となりました。
1907(明治40)年には増築し、販売方式も陳列式デパート方式をとるなど新しい試みを行いました。
1919(大正8)年5月、火災にみまわれますが、鎮火後3時間で板囲いを完了、同時に近隣にお詫びに回りました。
同年6月には難波駅前の南演舞場で、火災を免れた商品の処分市を行いました。そして同年9月、昼夜兼行で工事を行い、わずか3ヵ月で復興開店しました。
大阪 長堀店の開店
大正中期、三越、松坂屋、白木屋などの呉服店は、鉄筋コンクリートの近代店舗を建築し、積極的に百貨店経営に取り組み始めていました。
高島屋は1919(大正8)年の株式会社設立を機に、大阪の店舗を本格的な百貨店とすることとしました。
その折、堺筋の長堀橋南詰めの公売情報を得ます。当時のメインストリートである堺筋長堀橋は、市電の交差する申し分のない立地でした。
高島屋初の近代店舗として、設計には中之島中央公会堂の設計者岡田信一郎、施工は竹中工務店に依頼しました。
1922年10月に開店。本館は鉄筋コンクリート造り・地下1階・地上7階建て。換気・暖房装置、エレベーター(客用4基、店用4基)を備えました。
関東大震災、東京 南伝馬町店全焼、約1ヵ月後に臨時営業所開設。
商号を株式会社高島屋と変更。
均一店ストアの展開
大正末期から昭和初期にかけ、都市部で近代的百貨店が複数建てられる一方、関東大震災からの復興景気は沈静化し、各百貨店とも販促に苦慮していました。そんな中、1926(大正15)年、大阪 長堀店では「なんでも10銭均一売場」が好評を得ていました。その後、大阪 南海店(1930年一部開店)でも10銭均一売場を新設すると、かねてから研究を進めてきたチェーン展開による均一店経営に乗り出します。1931(昭和6)年、野田阪神、大正橋(大阪)を皮切に、東京、京都へも拡大。同年末には26店を開設しました。
その後、20銭均一等、他の均一商品を加え拡大。1938(昭和13)年には(株)丸高均一店を設立。1941(昭和16)年には全国106店舗が完成。今日の均一店チェーンの先駆けとなりました。しかし太平洋戦争開戦以降、徐々に販売は難しくなり、ほとんどの店を閉鎖していきました。(写真は野田阪神店)
大阪 南海店の全館開店
1924(大正13)年、御堂筋拡張計画が発表され、その後、地下鉄計画も具体化し、大阪のメインストリートが堺筋から御堂筋へ移動することとなりました。堺筋に店舗を構える三越、白木屋、松坂屋、高島屋(長堀店)の4社にとっては大問題でした。
さらに南海難波駅大ビルディング計画を知ります。当時、堺筋の長堀店は開店したばかり(1922年)であり、また東京でも日本橋への出店が進められていたので、更なる出店は大きな冒険でした。当時の社長四代飯田新七は判断に苦慮しましたが、1928(昭和3)年7月、ついに高島屋の難波進出が決定しました。
南海ビルは久野節氏設計、大林組施工により、1930年12月に一部完成し、「南海高島屋」が開店しました。
東京 日本橋店の開店
1914(大正3)年には三越が、関東大震災(1923年)の翌年には松坂屋、翌々年には松屋が相次いで新店舗を開設。
高島屋東京店(南伝馬町店)も、日本橋の大通りに面した日本生命館で本格的百貨店建築を目指していました。
「同じ造るなら最高のものを」と、建築デザインを公募し、工学士高橋貞太郎の作品を採用しました。
そして1933(昭和8)年、鉄筋コンクリート造り地下2階、地上8階の東京 日本橋店が完成・同年3月開店しました(施工:大林組)。
1階ホールの柱はイタリアから取り寄せた大理石張り、天井には豪華なシャンデリアを3本吊るし、当時、三井本館とともに贅を尽くした2大建築物と言われました。
2009(平成21)年、わが国百貨店建築初の国の重要文化財に指定されました。
第1回「上品会」開催。
呉服店系としては異例の食堂経営に取り組み、大阪店に東洋一の大食堂が誕生。
大空襲を受けた難波駅付近
1945(昭和20)年3月、東京、大阪は相次いで空襲に見舞われました。各店防護団の必死の消火活動があり、両店とも本館の全焼は阻止することができました。
終戦当時、店舗は京都・大阪・東京の3店でしたが、同年10月には物資欠乏時代に対処すべく、組織改正を行い、中でも修理活用部が人気を集める時代でした。
一方、当時本店だった大阪店には卸部を新設し、引揚げ社員や復員社員を中心に全国各地の産地から物資を収集して、卸販売や文芸書、大衆雑誌の出版事業なども行いました。